ここ1ヶ月で4本のコンサートを見て、ずっと考えていた。
観客が見たいものと、演者が見せたいものは往々にしてずれる。なぜか。
芸能の世界だけじゃない。スマートフォンの新製品やWebサイトのリニューアルでも同じようなことが起きる。いくつかの視点から考えた。
そもそも、双方の求めていたものが本質的に異なる場合は致命的である。発信側がターゲット設定を間違えている場合に起きやすい。
一対一のコミュニケーションであれば、念入りに摺り合わせを行うことで、方向性の違いやミスマッチを埋めることができる。しかしコンサートや新製品のように、事前摺り合わせがネタバレになってしまう場合は、要求の想像やサンプリング推定が必要になり、そこにギャップが生まれる。
人は往々にして変わること恐れる。一方で、劇的な変化からもたらされる非日常に悦びを覚える。これらの欲求は相反している。
高度に抽象化されたものは美しく、その理解や解釈のプロセスすら楽しいものである。しかしその一方で、あまりに抽象的なものは理解されない。
面白さをひらめいて作ってみたものの、推敲を繰り返すうちに、一体何が面白かったのか分からなくなってしまう場合がある。そこに迷って置きに行くと、たいていこじんまりとした出来になってしまう。
若い表現者にありがちなのだが、情熱があふれすぎて、取捨せず詰め込みすぎてしまう場合がある。ポイントがぶれたり、緩急がつかなくなってしまう。
求められているものを把握しているにもかかわらず、あえて外すケース。うまくいけば「ひねり」になるが、失敗するとアレな感じになる。
運営側が、先行投資と称して不釣り合いな下駄を履かせる場合に起きやすい。上手くいく場合があるのは否定しないが、誰も得しないような結果になることも多いと思う。
世界に通じるような良いものであっても、会場のキャパや演出規模、売り上げなどは、どこかで必ず頭打ちする。有限の現実は、無限の想像に勝てない。
時間、品質、予算、要員、物理限界、法律、倫理・・・これらは互いに制約条件となり、アウトプットの上限を決めてしまう。受信側はこれらの制約に気付きにくく、しばしばギャップの原因になる。
また、持続可能性という制約もある。継続性が要求される案件では、リスクを恐れて急激な拡大を抑制する場合があり、受信側はその歩みにやきもきするかもしれない。
マイケルジャクソンのスリラーは6,500万枚「しか」売れていない。宇多田ヒカルのFirst Loveだって、国内では860万枚「しか」売れてない。俺は両方持ってない。
全人類が一人残らず100点を付けるということはあり得ない。受信側は、自分がその100点を付けない側かもしれないということを意識する必要があるのではないか。
受信者の一部は、深い分析を繰り返すあまり、メタ視点を持つようになる。さらにその一部は、前述のような制約条件を一切無視した自身の妄想と、発信側から提供される現実との違いに怒りを覚えるかもしれない。そうしてさらにその一部は、そのやり場のないエネルギーを、発信者や周りの受信者にぶつける場合がある。
違和感を感じたら、そこから離れた方が良い。嫌いなものや思い通りにならないものに固執するのは精神衛生上良くないし、なにより時間の無駄である。
結論とかは特にない。
え?見たいものと違ったって?
知らんがな!